はやく歩く
僕は普段とてもはやく歩く。
大抵は何人も追い越し追い越し、目的地へ急ぐ。
どうしてこんなに周りの人は歩くのがゆっくりなんだろう、と思う。滅多にないが、脅威的に僕より早い人も、たまには居るが、、、しかし僕はかなり早いほうだと思う。
その理由をふと考えてみると、道中は無駄な時間であり、目的地がある限りは自由を束縛されている時間だと感じているからだ。だから、早くそんな時間は過ぎて欲しいと思い、早く歩いているようだ。
電車の中では始終、携帯電話でメールやニュースを読んだりしている。こうなると自由な時間だと思えそうだが、そうでもない。なぜか、あまり心は穏やかではない気がする。
もともとは、何かやりたいことがあって、その目的の為に早く目的地に着きたい、だから急いでいるはずなのだ。自分自身の意志であるはずなのに、ストレスになってしまっていることが、社会生活ではよくあると思う。
今日、帰り道で思ったのだが、そういう「移動時間」のことを、どうやら私は記憶から消そうとしているようだ。そんなに苦痛なのだろうか?
僕は小学生の頃、学校から自宅へ帰るまでの間、なんと2〜3時間もかかって歩いていた。当時の友人には今でもよくからかわれる。
途中、水田に蛙の卵があれば手に取って遊び、なにか怪しい戦艦のように見える物体(たぶん廃棄された何か)があればそれで様々な空想をし、雨の日は傘を宇宙船に見立てて歩き(自分はずぶ濡れ)、薄暗い通路があれば「ぎゃー」とか言いながら何度も通り抜けたり、地蔵があれば神妙な気持ちになり拝んでみたり恐い空想をしたり、知らない道があって魅力的ならばずんずん歩いていった。暗くなるまでに帰れば、それでよかった。目的などあるはずもない。
もしもいま、2〜3日自由だったとしても、勝手に自分で目的を設定して苦しんでしまうだろう。「ここ数日の休暇は、なあんにもしないで、ぐでーっとして過ごすぞー」と最初から決めたとしても、最終的には「せっかくの休みを無駄にした」とかなんとか後悔しそうだ。
この違いは、大人になったから、なのだろうか。子供の頃と違って、自分の面倒は自分で見なくてはいけない。問題がおこらないように、やることはちゃんとやらなくては自分が困る。宿題を忘れたから怒られた、というのとはワケが違う。
だけど今日の帰り道は、途中から子供の頃を意識して、ぼけーっと気ままに歩いてみた。
「早く家に帰って休もう」とか、「帰ったら何をしなきゃ」とか、一切考えず、このままどこかに歩いていってしまってもいい、というぐらいの気持ちで。
そうすると、景色の見え方が違うのだ。まるで、疾走系のプロモーションビデオ(風景がずんずん迫ってきたり流れていくタイプのビデオ)のように、情緒的に、鮮やかに、立体的に流れるように、通りすぎていく。毎日見慣れていて厭々していて、記憶に残らないようにしていた道が、全く不快ではなくなった。
大人になるほど、1日が、1年が、早くなるとよく言う。たしかに子供の頃はもっともっと、1年というととんでもなく長い時間だった。それはたぶん、大人になると生活習慣的に「時間」が分断されてしまうからだと思った。無駄だと思う時間や耐えなければいけない時間、毎日同じことをする繰り返しの時間、自分でこうすると決めてしまっている時間、そういうものに、考えはリセットされてしまう。何か空想していることがあっても、決められた時間帯には、いつも通りの心境になっている。
平日はハードに仕事をこなし、週末思いきり遊んでストレス発散を感じる、などどいうのは、端的な例だと思う。心は自由なのだから、もっと好きなようにしていればいいのだと思う。
つまり僕は学校でも上の空な子供だったということなのだが。。。幸せだったと思う。そしてもっと創造的だったと思う。
バイクに跨って疾走すると気持ちが良いのは、何か通じるものがある。目的の無い「旅」ならば、完璧だ。

